見てる方、ありがとうございます。
さて、本日は「死」について考えていること。
この世で絶対的なものであり、かつ、絶対的な平等である、死。
どの段階が死か、という定義は科学的、倫理的、様々にあり、それは人それぞれの選択によって定義付けするべきだと思います。
それは置いといて、今回は「死」そのものの定義。
こないだ勉強会での宿題として、
「死の何が恐怖なのか」
というお題をいただきました。
死=恐怖(恐れ、畏れ)という考え方はまあ一般的であると思います。
その精神性はどこからくるのであろうか。
僕は端的に死の非経験性が必要以上な恐怖心を増幅させるのではないか、と考えています。
少し話がそれますが、生きている間に死を定義付けすることは以前からあったことなのだろうか。
「一人称の死」というのは絶対に体験ができません。
以前では体験できない「一人称の死」を「二人称、三人称の死」で疑似体験する機会が多く存在していました。
しかし、現在では死を限りなく隔離し、疑似体験が乏しくなってきています。
そういった死の疑似体験、もっというと、名詞形の「死」ではなく、動詞形の「死ぬ」をめったに見たり、感じたりすることがなくなりました。
少なくなってきたからこそ、死の定義付けがなされ、必要以上の恐怖心を抱くようになったのではないだろうか。
「二人称、三人称の死」で喪を経験することで、死者の弔いをすることで、自然と自己の死を定義していたのが以前であったのではないだろうか。
そんなことを感じました。
長くなりそうなので、「死ぬこと」とは、「死の先にあるもの」とはについては次回気が向いたら更新しようと思います。
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ぐっばい。
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